おなじみ、剣術道場や、最近では柔道や空手の道場でも、床の間に飾ってある一幅対の掛け軸。
あるきっかけから、これの由来をネットで確認しようとしたら、自分が知ってる話とは似ても似つかないものが、ネット的に「定説」になってるらしいってことがわかった。
やっぱり、こーいうことってあるんだねー。
ネット説では……鹿島神宮のタケミカヅチも、香取神宮のフツヌシも、古い軍神、武神だから、それにあやかって格闘系の道場に飾ってあるというもの。
正直、これってむちゃくちゃじゃないっすか?
武神・軍神にあやかるんなら、まず第一にヤマトタケルが出てこないとおかしいっしょ。
だいたい、フツヌシを出すならもっとメジャーなタケミナカタとか、万能神オオヤマツミとか、よりすぐれた候補がいるはず。つまり、このネット説では、なぜタケミカヅチとフツヌシなのか、その必然性が説明できないわけです。
まあ、フツヌシに関しては、タケミカヅチといっしょに語られることが多いんで、だからっていういい方もできるけど、じゃあなぜタケミカヅチかってところにもどっちゃう。
それに、ネット説では、旧海軍と自衛隊の練習艦がなぜ伝統的に香取(かとり)、鹿島(かしま)って命名されてるか、説明できる?
できないっすよね。
では、子供のころから知ってる説をひとつ。
剣聖・塚原卜伝が出てくるんです。じゃーん。
卜伝はもともと鹿島神宮の神官職の家系の出で、養子にいった先では香取神道流を会得した人。青年期には、鹿島神宮に1000日かな、参拝だか参籠だかして、大神(これがタケミカヅチ)の神託を得たりしていて、とにかく両神宮にとてもゆかりが深いわけです。
その卜伝の弟子や、そのまた弟子たちが後年、江戸でいろんな流派の剣術道場を開くんだけど、いろんな流派は名乗っても、源流は卜伝に行きつくから、その師匠・大師匠が信仰していた両神宮の書を、道場のいちばん上座にあたる床の間に飾るようになった。
これがはじまり。
それが、江戸後期になると剣術以外に、柔術の道場なんかもできてきて(千葉道場の向かいに柔術道場ができた、なんていう話を、昔ドラマかなんかで見た記憶があるな、そーいえば)、そこでも先輩格である剣術道場にならって、この一幅対を飾るようになった。
さらに時代が下ると、空手道場や格闘技道場なんかでも、これがしきたりだと思って同じように飾ったが、このころにはもう当初の意味は忘れられて、現代にいたる。という感じ。
つまり、結果的に「すべての格闘系道場の父」になった塚原卜伝が、篤く信仰していたのがこの両神宮、その主神が両明神だったため。
これが正解なはずです。
「はず」つきなのは、確証となる資料が手もとにないから。あと、子供のころから持ってるこの手の知識って、講談やあやしい時代小説なんかで仕入れてる可能性がけっこう高いから。ヽ( ´-`)ノ
要するに、自分の記憶が信じられないのね。(^^; だからネットで確認しようとしたんですが。
ただ、この件に関しては、軍神だから説はあまりに説得力がない一方、卜伝説はその昔、そこそこ流布していたのは確実だし、両明神である必然性っていう点がクリアされてるのが大きい。
さらに歴代練習艦がなぜ香取、鹿島、かとり、かしまを名乗っているか。これも、練習艦は「士官候補生を心身ともに鍛錬する(剣術)道場である」みたいな位置づけと考えれば、納得できるでしょう。
という、相当にややこしい生存証明でした。
あるきっかけから、これの由来をネットで確認しようとしたら、自分が知ってる話とは似ても似つかないものが、ネット的に「定説」になってるらしいってことがわかった。
やっぱり、こーいうことってあるんだねー。
ネット説では……鹿島神宮のタケミカヅチも、香取神宮のフツヌシも、古い軍神、武神だから、それにあやかって格闘系の道場に飾ってあるというもの。
正直、これってむちゃくちゃじゃないっすか?
武神・軍神にあやかるんなら、まず第一にヤマトタケルが出てこないとおかしいっしょ。
だいたい、フツヌシを出すならもっとメジャーなタケミナカタとか、万能神オオヤマツミとか、よりすぐれた候補がいるはず。つまり、このネット説では、なぜタケミカヅチとフツヌシなのか、その必然性が説明できないわけです。
まあ、フツヌシに関しては、タケミカヅチといっしょに語られることが多いんで、だからっていういい方もできるけど、じゃあなぜタケミカヅチかってところにもどっちゃう。
それに、ネット説では、旧海軍と自衛隊の練習艦がなぜ伝統的に香取(かとり)、鹿島(かしま)って命名されてるか、説明できる?
できないっすよね。
では、子供のころから知ってる説をひとつ。
剣聖・塚原卜伝が出てくるんです。じゃーん。
卜伝はもともと鹿島神宮の神官職の家系の出で、養子にいった先では香取神道流を会得した人。青年期には、鹿島神宮に1000日かな、参拝だか参籠だかして、大神(これがタケミカヅチ)の神託を得たりしていて、とにかく両神宮にとてもゆかりが深いわけです。
その卜伝の弟子や、そのまた弟子たちが後年、江戸でいろんな流派の剣術道場を開くんだけど、いろんな流派は名乗っても、源流は卜伝に行きつくから、その師匠・大師匠が信仰していた両神宮の書を、道場のいちばん上座にあたる床の間に飾るようになった。
これがはじまり。
それが、江戸後期になると剣術以外に、柔術の道場なんかもできてきて(千葉道場の向かいに柔術道場ができた、なんていう話を、昔ドラマかなんかで見た記憶があるな、そーいえば)、そこでも先輩格である剣術道場にならって、この一幅対を飾るようになった。
さらに時代が下ると、空手道場や格闘技道場なんかでも、これがしきたりだと思って同じように飾ったが、このころにはもう当初の意味は忘れられて、現代にいたる。という感じ。
つまり、結果的に「すべての格闘系道場の父」になった塚原卜伝が、篤く信仰していたのがこの両神宮、その主神が両明神だったため。
これが正解なはずです。
「はず」つきなのは、確証となる資料が手もとにないから。あと、子供のころから持ってるこの手の知識って、講談やあやしい時代小説なんかで仕入れてる可能性がけっこう高いから。ヽ( ´-`)ノ
要するに、自分の記憶が信じられないのね。(^^; だからネットで確認しようとしたんですが。
ただ、この件に関しては、軍神だから説はあまりに説得力がない一方、卜伝説はその昔、そこそこ流布していたのは確実だし、両明神である必然性っていう点がクリアされてるのが大きい。
さらに歴代練習艦がなぜ香取、鹿島、かとり、かしまを名乗っているか。これも、練習艦は「士官候補生を心身ともに鍛錬する(剣術)道場である」みたいな位置づけと考えれば、納得できるでしょう。
という、相当にややこしい生存証明でした。